内部地区の地形・地質(四日市市史より内部に関連する部分を抜粋、引用、編集して作成したが文責は当ホームページにある)1. 概要四日市市は伊勢湾から内陸部へ、宮越山(標高1029.7m)を中心のする鈴鹿山地まで広がり滋賀県に接している。この間の地形は鈴鹿山脈東麓の断層崖、それに続く丘陵と変化に富み、平地は市街を西から東に流れる朝明川・海蔵川・三滝川・内部川・鈴鹿川によって生まれた扇状地とその下流の沖積平野で構成されている。 この扇状地はこれらの川によって浸食され(開折という)東西に広がる台地(地形学上、平坦な頂上を持つ卓状の高地をいう)や丘陵(緩やかな斜面と谷底を持つ地形をいう)となり、また川沿いには低地(谷底コクテイ平野、河成低地・氾濫低地ともいう)が発達している。また、伊勢湾の海岸線から3~4kmの幅で南北に広がる標高10m以下の地域は海岸低地と呼ばれ伊勢平野の北部を占めている。 市街地はこの低地を中心に発達し、戦前の家並みもほとんどこれらの平野面にあった。内部地区は四日市市の南端、宮妻口を扇の要として東に向かってなだらかに下る水沢扇状地の東端のあたりに位置し、扇状面を流れる天白川・足見川・鎌谷川・内部川・鈴鹿川によって侵食された台地、丘陵地・河成低地などの地形から成っている。 沖積期初め(約1万年前)の地形想像図と地質概念図 2. 地形・地質の形成このような地形はどのようにして出来てきたのであろうか。北勢地域を中心に、地形・地質形成の動きを見てみよう。海の底 今から数億年前、この地域はまだ海の底にあった。この海に陸から運ばれてきた砂や泥が次々にたまって長い年月の間に厚い地層が作られていった。その間には火山の活動も激しかったらしく溶岩や火山灰も堆積したし原始生物の死骸の堆積もあった。現代鈴鹿山脈で見られる硬い砂岩や粘板岩・石灰岩・チャートなどがこの時期の堆積物で地質学上では秩父古生層と呼ばれている。この海は数億年も続いた後隆起が始まった。 隆起・陸化 2億数千万年前(古生代の末期)褶曲運動が起こりはじめ、徐々に海底が持ち上がって海面上に姿をあらわした。この新しい陸地はその後絶えず浸食を受けながら数千万年前(新生代の第三紀の中頃)まで存在しつづけた。この間、1億数千万年前(中生代の末期・白亜紀に入る頃)地下ではマグマの活動が盛んになり秩父古生層の中に入り込んで固まり花崗岩類をつくった。この侵入は鈴鹿山脈の竜ヶ岳の南から釈迦ヶ岳・国見岳・御在所岳・鎌ヶ岳・宮越山・仙ヶ岳、さらに南に続く広大なものであった。 海の侵入 今から約2千万年前(新第三紀中新生ごろ)、三重県北部では、まず湖が生じ、続いて海が侵入してきた。この海は、東は長野県南部に、西は鈴鹿山脈・布引山地を横断し瀬戸内海沿いに広島県西部に達するという大きな内海で地質学上「古瀬戸内海」と呼ばれている。この内海は1千万年前ごろ(第三紀中新生のはじめの頃)まで続いたが消滅し、再び陸化が始まった。 東海湖 約500万年前(鮮新世に入った頃)この地域には大きな湖が出来た。現在の伊勢平野・伊勢湾・濃尾平野・知多半島から豊橋付近にわたる広大な広がりをもつ淡水の湖であり、地質学上では「東海湖」と呼ばれている。この湖に堆積した地層は三重県では「奄芸層郡アゲソウグン」と呼ばれている。この堆積地層は礫岩層に始まり、その上にうすい亜炭層、または炭化度の低い石炭層を挟む泥がちの砂泥互層が続き、に砂泥や砂礫の互層が重なり、最後に再び砂礫を主とする層が重なった地層構造となっている。この湖の時代も約100万年前頃(第四紀更新生:洪積世の初期)には終わりを告げ、東海湖は消滅してしばらく陸の時代が続いた。市域に最も広く分布しているのがこの東海湖に堆積した奄芸層郡で、市域の丘陵をつくっている。 扇状地・谷底平野の形成 約100万年前頃(第四紀更新生:洪積世に入る頃)現在の鈴鹿山脈の山麓を南北に走る一志断層ができはじめた。この断層の落差は1,000m近くもあることがわかってきており、何回もの変動が重なって生じたものと考えられ、鈴鹿山脈の東に急崖な地形はこの時期の動きによって生じたものと考えられている。 一志断層の出現によって、河川の浸食が若返り、膨大な量の岩石が運び出され、やや平坦化した奄芸層郡の侵食面上に堆積し始め、扇状地を形作っていった。年代の経過とともにいくつかの扇状地が形成されているが、宮妻峡の入口付近を扇頂として東方から東南へと扇面を広げていった水沢古期扇状地はその後の浸食作用によってかなり縮小はしているが、それでも狭間・八王子・貝家・河原田、さらに市の南側に隣接する鈴鹿市山辺町へ達する広い範囲に残存している。古扇状地の形成後、扇面は面上を流れるか河川によって浸食され次第にその谷幅が広がり谷底平野を形作っていった。 縄文海進 1万数千年前に最終氷河期が終わり、その後数千年にわたって高い気温が続いて極地の氷床が解け、海水面が上昇した結果海が平野部の奥まで入り込んだ。日本では縄文時代の前期にあたる約6,000年前ごろにピークがあったとされている。これを縄文海進(じょうもんかいしん)という。 この時期、約1万年前ごろ(更新生の終わりごろ)坂部が丘から生桑丘陵の東端を南北に走り、さらに四日市南部丘陵の東端付近を南へと伸びる四日市断層ができた。また同じ頃、垂坂山の東側を南北に走る桑名断層もできた。断層の落差は30m程度と推定され、これにより伊勢湾側が陥没して断層線の東側が海域となった。 海岸平野 その後、海はこれに注ぐ朝明川・海蔵川・三滝川・天白川・内部川・鈴鹿川の河川によって陸岸に近い部分から沖に向かって砂ないし砂礫からなる堆積物で埋められていった。浅くなった海域は海水準の下降や海底の隆起によって海岸平野となり(海退という)しだいに沖に向かって広がっていった。中央緑地付近一帯は埋め立てられて公園となる前はヨシの繁茂する湿地帯であった。明治初期に始まる四日市港、第二次大戦後の石油コンビナートの建設等によって大きく変わり今日に至っている。 東西地形断面図 地形分布図 水系図 水沢扇状地の分布図 3. 内部の地形次に、内部地区に見られる地形について詳しく見てみよう。内部地区の台地 天白川と足見川によって挟まれた地域では水沢扇状地の東端のしっぽあたりが高花平の平坦な台地で、その先は丘陵地につながっている。足見川と鎌谷川で挟まれた地域では、山田町あたりで中断してから再び東に細長く伸びて貝家町の加富神社あたりまで達している。鎌谷川と内部川に挟まれた地域では北小松まで伸びている。 泊丘陵 天白川と足見川によって挟まれた丘陵地で泊丘陵と呼ばれ南部丘陵公園になっている。東西約3.5km、南北には西部で狭く、海岸低地に面する東部では2.5km内外の広がりを持っている。 標高60~70mの定高性の丘陵で最高地点は小古曽北方の三角点74.3m(宅地造成以前は波木町北西に三角点83.3mがあった)である。この丘陵地は早くから住宅団地開発が進み、高花平(1960~1964)、市域最大の笹川(1963~1968)、波木が丘(1979~1982)、波木南台(・・~・・)の各団地が造成されている。 河原田丘陵 内部川と鈴鹿川に挟まれた地域にあり、鈴鹿川に沿う半分は鈴鹿市に属している。采女丘陵とも呼ばれている。 標高50数mの定高性の丘陵で、頂部には水沢古期扇状地堆積層で覆われたかなり広い平坦面を残し、台地を形成する部分もある。この丘陵の最高地点は鈴鹿市国分町、菅原神社にある水沢古期扇状地面上の小丘標高62.5mにある。ここにも采女が丘団地が造成されている。内部川に面する丘陵北端に連なる崖地は土砂採取によってできたものである。 河成低地(谷底コクテイ平野) ・内部川低地 宮妻峡口からほぼ北西~南東に直線状に流下する内部川に沿う谷底平野である。谷幅は上流部で0.3km、中流より下流では0.6km内外でやや広くなっている。他の河川に比べて曲がりくねりが少なく河岸段丘の発達が悪いのを特色としている。北小松町で鎌谷川と合わせ、貝家町で足見川を合わせ、さらに4kmあまり流れて三角州平野上で鈴鹿川に合流する。 ・足見川低地 内部川の支流、足見川に沿う低地で、天白川の南に位置し、天白川低地との間に泊丘陵がある。貝家町で内部川の谷底平野に接続する。源流は天白川よりは西に伸びているが鈴鹿山地までは至らず四日市丘陵内に止まっている。小山町から山田町にかけて規模の小さい曲流(蛇行)をみる。谷底平野の発達はあまりよくないが山田町付近から下流では0.3~0.5kmに広がっている。 ・鎌谷川低地 内部川の支流、鎌谷川に沿う低地で、足見川の南にほぼ平行して発達している。谷頭は鈴鹿山地の雲母峰南東の斜面上にある。谷底平野の発達は巡見街道(国道306号)付近より下流域だけでそれより上流域には見られない。谷底平野の幅は足見川と同様変化が大きい。しかし山田町より下流では0.5km内外となり、北小松町で内部川の谷底平野に接続する。 海岸低地 内部地区では国道1号線あたりから東側が海岸低地であり、旧東海道もここを通っていた。鈴鹿川河口一帯は鈴鹿川三角州平野とも呼ばれている。 ページトップ 戻る |