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郷土に残る産業遺産 装荷線輪用櫓
南小松の国道1号近くの畑の中にコンクリート製の4本足の櫓(やぐら)が立っています。地元でも一部の人にしか知られていませんがこれは昭和初期の長距離電話線用の施設で、装荷線輪を設置するための櫓です。この装荷線輪とはどういうものかを知るためには電話通信の歴史をさかのぼる必要があります。
グラハムベルが電話を発明したのは1876年(明治8年)、その23年後1899年(明治32年)には東京-大阪・神戸間の市外電話回線が開通していますが、この当時は架空裸線であるため通話距離に限界がありました。その後1900年(明治33年)から1913年(大正2年)にかけてアメリカで開発された装荷ケーブルと真空管中継器方式によりこれらの問題が解決し長距離通話が可能となりました。
この方式は通話回線に多数の芯線を絶縁して束ねたケーブルを用い、一定の距離ごとに信号を増幅させ、ゆがんだ波形を整形する施設として真空管中継器を備えた中継所を設置し、音声の減衰を防ぐために中継所間に一定の間隔で装荷線輪(ローディングコイル)という装置を挿入するものでした。 この装荷ケーブル方式による日本で最初の通信回線が1928年(昭和3年)、東京-神戸間609.4kmに開通しました。中継所は80km間隔で、東京を基準として横浜、足柄、江尻(清水)、見附(磐田)、豊川、名古屋、亀山、膳所(大津)大阪の9カ所に設置されました。
中継所と中継所の間には1830m(6000フィート)間隔で装荷線輪が設置されました。この装荷線輪を置く施設として架空線用に建設されたのが鉄筋コンクリート製の櫓で、南小松のものは長さ4100mm、幅3200mmの四隅に配置した高さ約6500mmの4本の柱(440mm角)と、柱の中間に装荷線輪を置くプラットフォームを設けた構造となっています。 装荷線輪の櫓と櫓の間は多数の木柱で渡され、電柱の高さは7.3m、間の距離は30mが標準で、川越など距離のある場合は鉄塔を建てて渡しました。
三重県には四日市市南小松町(県道8号線の5差路交差点から南西に向かう農道沿い)のほかに鈴鹿市廣瀬町(県道637号線沿い、国指定史跡「伊勢国府跡」の近く)に現存しています。両櫓とも長軸方向は南西の方向を向き、直線距離は地図上の計測で6.9kmですので、この間に4基の櫓があったものと思われます。 他には愛知県豊川市2件、豊橋市1件、静岡県1件の報告があります。このうち愛知県豊川市の「旧豊川電話用装荷線輪用櫓」は2007年、国の登録有形文化財に登録されています。また、天野武弘による詳細な報告もあります。
日本の長距離通話をはじめて実現したこれらの施設は産業遺産としての意義と価値があり、下記の参考文献においても強調されています。この装荷線輪が内部村四日市市合併70周年記念誌の原稿「南小松町の変遷」に取り上げられたのを機に郷土の産業遺産として広めるべく、うつべ町かど博物館の「内部歴史覚書57」としてまとめ、その抜粋をかわら版記事としました。
本記事の大部分は下記の参考文献から引用しました。
(1)天野武弘「旧豊川電話中継所と装荷線輪用櫓」『愛知県史 別編 文化財1 建造物・史跡』愛知県、2006年
(2)天野武弘「旧豊川電話中継所と装荷線輪用やぐら-初期の長距離市外電話(装荷ケーブル)の産業遺産-」『産業遺産研究』第13号、中部産業遺産研究会、2006年
(3)野口英一朗・天野武弘「続・旧豊川電話中継所と装荷線輪やぐら-調査による建物の図面と機器配置-」『産業遺産研究』第14号、中部産業遺産研究会、2007年
(4) 天野武弘氏産業遺産研究に関するHP http://www.tcp-ip.or.jp/~amano-ta/
(2013年5月4日 うつべ町かど博物館より情報提供がありました)
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